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新着情報

札幌市にある北海高等学校から
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平成28年 全校集会・開校記念日を前に

2016年05月13日校長先生から

みなさんは、中島公園にある豊平館という建物を知っているでしょうか。北海道を代表する明治期の洋風木造建築で、1880年(明治13年)に開拓使が直属のホテルとして開設したものです。文明開化のシンボルとして名高い鹿鳴館より2年早く建てられています。当初は現在の市民ホール(弁論大会で会場)のある場所に建っていました。アメリカンスタイルの優美な建築で、1964年には国の重要文化財に指定されています。耐震強度が足りず、老朽化も進んでいたため、2012年4月から改修工事が行われていましたが、4年間の工事を終え、来月20日から再オープンするそうです。
今から131年前の明治18年(1885年)3月15日、この豊平館の大広間に140名余りの青年が集まり、北海高校の起源である北海英語学校の開校式が行われました。現在開校記念日は5月16日ですけれども、それは1901年(明治34年)
に道庁が正式に認可した北海英語学校中学部の入学式が行われた日にちなんでいます。
いずれにしても131年前の開校式の場がそのまま現存しているというのは感慨深いものがあります。校長は大津和多理先生。札幌農学校(現在の北海道大学)の3期生であり、その時28歳であったといいます。当時、札幌農学校で学ぶためには英語力のあることが必須の条件になっていました。クラーク博士に代表されるように、札幌農学校の教師の多くは外国人だったからです。まだ日本語では高等教育ができなかった時代でした。北海英語学校は、札幌農学校への進学をめざす地元の青年のためにつくられた学校でした。
それから131年、北海はこの春までに39.270人の卒業生を社会に送り出してきました。2年生が卒業するときには、4万人を超えることになります。
その多くの卒業生の中で、今日は福地靖さんという方について話をし、後ほど映像も見てもらいたいと思います。昨年の春、NHK函館放送局の庄司さんという方から、福地靖さんについての問い合わせがありました。福地さんについては、作家・島木健作と仲の良かった同級生ということしか知りませんでした。調べてみると北海中学18期(大正12年3月卒業)で、同期には作家の島木健作(本名・朝倉菊雄、代表作「生活の探求」は戦前の大ベストセラー)をはじめ、北海中学・北海高校と北海野球部を38年間にわたって指導し「北海道高校野球の父」と称された飛沢栄三先生や、教育者で道立高校や札幌北斗高校の校長を務め、歌人としても有名だった横田庄八先生(拉致被害者横田めぐみさんの祖父)などがいました。福地さんは北海中学卒業後、早稲田に進学しましたが、その後京城医科大学(現在のソウル大学医学部)に学び、医師として満州に渡って開拓団の人々の生活を支えました。当時、日本は中国東北部に満州国という国(1932年〜1945年まで存在)を作り実質的に支配し、国策として多くの人々を満州開拓のために移住させていたのです。しかし、終戦直前、ソビエト軍が満州に侵攻し、開拓団の人たちは置き去りにされました。そして開拓団の人々の逃避行や集団自決という悲劇が起きました。福地さんは過酷な、絶望的な状況の中で冷静な勇気ある判断を下し、集団自決しようとする人々を生き延びるよう説得して多くの人々の命を救ったということです。戦後日本に帰ってくることができた人々の証言によって、福地さんの行動が語り伝えられたのです。残念ながら福地さん自身は生きて日本に帰ることはできませんでした。NHKは開拓団の記録や資料から、福地さんの人間的な行動は特筆すべきものとして、福地さんのことを取材しようとしたわけです。取材は難航しましたが、福地さんは飛沢先生と同じく古平の出身で、もともとの姓は近藤といい(どうして姓が変わったのかはわかりません)、実家は医院でした。現在、「北海道開拓の村」の旧北海中学校から程近いところにある旧近藤医院こそ、その実家だということもNHKの取材の過程で分り、その知らせを聞いて驚きました。戦後70年を経て、歴史の中から蘇ってきた福地さんの生き方や精神に深い感慨を覚えます。
島木健作に「ある友人のこと」というエッセイがあります。ある友人とは福地靖さんのことです。そこに描かれている福地さんは北海中学時代には「無口で、つかみどころのないヌーボーとした存在だった。興奮したり激語したり周章したりする彼を誰も知らなかった」と描かれています。物静かな落ち着いた人であったようです。しかし、一方で正義感が強く決断力に富み、豪胆なところがあって島木を驚かせたりしています。優れた読書家であり、また旅行好きで中学3年の時ひと夏かかって北海道中をまわり、4年の夏には九州・琉球のはてまで日本内地をほとんど巡り、さらに5年の夏には朝鮮から北満、蒙古まで行ったとのことですから、大変行動力のある人であったようです。
医者となってからは、満州関係者の話として、移民地でみなに神様のように慕われ、移民村の人々ばかりでなく満農の世話もしている。医者としては全く型破りの存在で、医は仁術ということを文字通り実践していると記されています。損得を度外視して奉仕的に治療にあたるお医者さんだったわけです。何ともスケールの大きい魅力的な人物です。
今日はこの後、その福地さんを取材したNHKのビデオ(ちょうど昨年夏に北海が甲子園で試合をしたその同じ日に放送されたもの)を見てもらいたいと思います。こういう先輩もいたということを、ぜひ記憶にとどめておいてください。
以上で私の話は終わります。