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新着情報

札幌市にある北海高等学校から
新着情報をお知らせしています。

北海高校創立130周年における全校集会での校長先生のお話

2015年05月22日校長先生から

明日は開校記念日です。北海高校は1885年(明治18年)の創立以来、130周年を迎えたことになります。130年の歴史をもつ学校は、全国的にみても数少ないと思います。同じ1885年にできた学校としては英吉利法律学校、現在の中央大学が有名です。北海は、地方にある私学としては誇るに足る歴史と伝統をもっているといってもよいでしょう。

今日は北海高校の歴史の中で語り継がれてきた二人の人物、ふたつの言葉について話をしたいと思います。
皆さんは、職員玄関の近くに二つの銅像があるのを知っていると思います。ひとつは黒川利雄博士の像、もうひとつはオリンピックのゴールドメダリスト南部忠平先輩の像です。それぞれを制作した方も、梁川剛一、本郷新という北海OBの著名な彫刻家です。この二つの像は、文武両道をめざす北海の象徴的な人物といっても過言ではありません。

まず、文を代表する黒川利雄博士について話をします。黒川先生は明治30年(1897年)に三笠市にお生まれになり、明治42年に北海中学校に入学し、大正3年に卒業されています。北海中学時代はおとなしい真面目に勉強する模範的な生徒で、入学する時は13番という順位でしたが2年生からはずっとトップの成績で卒業式では卒業生を代表して答辞を述べておられます。
その後、仙台の旧制第二高等学校(現在の東北大学)に入学します。その時、第二高等学校受験者中1位〜3位まですべて北海中学出身者であったといわれています。そのトップが黒川先生でした。黒川先生はさらに東北帝国大学医科大学(現在の東北大学医学部)で学ばれ、医学者としての道を一筋に歩まれて、がん研究の権威として活躍されました。東北大学の学長、癌研付属病院の院長なども務められ、1968年(昭和43年)には文化勲章を受章されています。学士院という日本を代表する学者の組織で院長を務められもしました。いわば、学問の世界の頂点を極められたといってもよい方です。
黒川先生が北海中学で学ばれていた時の校長は浅羽靖先生でした。浅羽先生は代議士をしていらして、年に二、三度しか学校へはお見えにならず、卒業式にもお見えにならなかった。それで、黒川先生は卒業してから浅羽校長あてに、五年間の教育の場を与えられたことを感謝する手紙を出したそうです。返事は期待していなかったけれど、浅羽先生からはがきが届き、その中に、『山上在山山又山(山上に山在り、山また山)』という一節があったそうです。
「山上に山在り、山また山」――この言葉について、黒川先生は、「学問の道にも人生行路にも、山を乗り越えれば次にまた山があるんだと、一生努力し続けることが大事なんだと、そんな意味だと思いますが、この言葉はそれ以後ずっと、私の処世訓にさせてもらいました。」(「山上に山在り」)と書き記しています。
一生向上心を燃やし続け、努力し続ける。黒川先生の人生はまさに「山上に山在り、山また山」を実践したものであったと思います。
黒川先生は医者として患者さんを診る時には、必ず手を温めるように後輩の医者に指導するようなお人柄の方だったようです。第二高等学校の時代に、黒川先生は北海の校歌の作詞者である土井晩翠先生と出会い、戦後は診療にも当たられたそうです。北海の歴史の中で深い縁(えにし)を感じるエピソードです。

黒川利雄博士の胸像と並んでいるのが、南部忠平先輩です。文武両道をめざす北海の歴史の中で、武を象徴する存在です。北海中学時代から陸上競技の選手として活躍し、全国中学陸上競技大会、現在のインターハイに出場して4種目で1位、個人総合優勝し、全国にその名を知られる存在でした。早稲田大学在学中の1928年(昭和3年)アムステルダムオリンピックで三段跳び4位入賞、1932年(昭和7年)ロサンゼルスオリンピックでは同じ三段跳びで金メダル、走り幅跳びでも銅メダルを獲得しました。円山競技場のセンターポールの高さは、その時の優勝記録15m72cmに由来しています。また1931年(昭和6年)に走り幅跳びで7m98cmという当時の世界記録を樹立、この記録はその後39年間、日本記録でありつづけました。選手引退後は、新聞社の運動部長、1964年東京オリンピックの日本陸上チームの監督、短大の学長などを務められました。日本が生んだ最高のアスリートの一人です。
そんな南部忠平さんがご自分の人生を振り返られて、こんなことを述べておられます。
「私がこのように、それぞれの個性を大切にするとともに、自分に自信をもつことにこだわるのは、長い陸上生活を通じて身につけてきたことなのだが、その大元は、父と北海中学の戸津校長にあったように思う。戸津校長は、『学校の優等生より、社会の優等生になれ』が口癖で」あったと書き記しています。(『紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗』)
戸津(高知)先生は、北海英語学校から札幌農学校に学び、浅羽先生の跡を継ぎ33年間にわたって北海中学の校長を務められ、生徒の個性を大事にされて、北海の自由な校風をつくりあげた方です。「学校の優等生より、社会の優等生になれ」――与えられた勉強をしていれば学校の優等生にはなれる。しかし、社会の優等生になるためには、もっと幅広い人間的な力が必要です。北海が人間教育ということを強く打ち出しているのもそのためです。北海の卒業生には、学校の優等生ではなかったかもしれないけれど、社会の優等生となった先輩は多いと思います。みなさんには学校の勉強にも一生懸命取り組んでほしいですが、それだけではなく自分を人間的に高めることを通して「世のため人のため」に尽くすことのできる、そんな「社会の優等生」をめざしてほしいと思います。
今日は、北海の文武両道を象徴する二人の偉大な先輩について話をしました。

 今年は130周年ということで、来月6月16日〜21日の期間、大通美術館というギャラリーを会場にして記念展を開催します。みなさんも是非、足を運んで北海の歴史と伝統に触れて、その教育精神を感じ取ってもらいたいと思っています。
 以上で話を終わります。